長倉三朗著作集

飛騨の里建設記

管理人註: 

・以下、文中に□とあるのは判読できなかった箇所です。有識者に協力をあおぎつつどこかで解読します。

・以下、長倉本人が用紙の欄外に追記した文言の頭には※欄外: と明記します

・飛驒の里公式サイト内「飛驒の里誕生物語」ではこのあたりの経緯が詳しくまとめられています

(2024.4.10追記: 飛騨の里の指定管理者変更によりWebサイトが一新されて消えてました。魚拓はこちら

 

 

集落博物館を思いついたのは昭和四十一年。四十三年に趣意書を出し四十四年、建設が決まり、一期完成までの記

 

 昭和四十四年十一月 從來の民俗舘を拡張の必要を感じ市役所に出す。

 

民俗館増設趣意書

 

 現在の飛騨民俗舘は周囲の山、髙山市街地あるいは日本アルプスの展望等誠によい環境にあります。しかし市有地民有地が入組んで取巻き土産店が多くこの点は非難の的となっています。又今後発展しようにも土地の價格が髙く、現在の民俗舘を拡張することは困難です。また観光施設の現状は金沢に江戸村、下呂に合掌村、白川村に於ても合掌部落の建設が目論まれています。また全国的に集めたものに明治村、豊中市の民家集落、川崎市の民家園など野外博物館が造られています。

 髙山としてもこれらの施設に後れをとらぬよう髙山独とくの施設を作ることが急務と思われます。それには生きた博物館として独特のカラーを持つ民俗村を作る必要があり、工芸と結びつけた、生きた動く博物館でなければなりません。

 飛騨の民俗・民具を収集保存し伝統工芸の製作工程を公開するこの民俗舘が松倉開発とともに進められ、計画通りに完成すれば、世界一と言われる民族博物館、スエーデンのスカンセン博物館に必てきするものとなり飛騨の風俗・民俗もこれに加われば東洋一といわれる民族博物館となることと思います。髙山市の発展のためにはぜひ造らねばならぬと思います。

 昨年提出した圖を御検討のうえ建設されんことを提案いたします。

 

※欄外: 四十一年につづいて四十三年にも出す

 

 観光課に於て建設の準備にかかる。場所は松倉の南側、エチゴ谷十万坪を候補地にあげた。ここは交通の便は悪いが十年先を考がえると、一番いいと思う。

 

 一 小村家 古川町大町 一刀彫

 二 日下部家 白川村御母衣 事ム所

✕三 松井家 河合村二ツ谷

 四 道上家 宮川村東加賀沢 右上

 五 西岡家 白川村加須良 中下

 六 直井家 髙山冬頭 右下塗

✕七 前田家 河合村稲越

✕八 木下家 荘川村町屋

 九 八月一日家 荘川村三尾河 中右上

✕十 二村家 馬瀬村名丸

✕十一 清原家 小坂町湯屋

✕十二 森下家 馬瀬村下山

 十三 吉眞家 河合村⻆川

 十四 富田家 宮村 解体

✕十五 名節家 河合村江黒

✕十六 南家(板倉) 河合村羽根

✕十七 古島(板倉) 神岡町ヲイワレ

✕十八 古島(板倉) 〃

✕十九 水上家 河合村天生

 廿 紺谷 河合村月原 木地屋

✕廿一 西家 高根村野麦

 廿二 苅安家 丹生川村町方 染

✕廿三 藤下(セイロ倉) 丹生川村

✕廿四 下小瀬家 河合村天生

✕廿五 鈴口家(ハザ小屋) 白川村萩町

 廿六 加賀沢 白山神社 →匠神社

 廿七 保神社舞台 舞台

✕廿八 小谷(坂窯) 上宝村双六

✕廿九 小泉家 上宝村双六

 丗 大畑家 清見村 解体 住所吉直水屋冨田

 丗一 わらび小屋 朝日村西洞 池

 丗二 唐臼 荘川村三尾河 池

✕丗三 井口家 冬頭町

 丗四 西永家 久々野町 窯

✕丗五 小林家 千島町

 丗六 中藪家 宮村山下 左中

 丗七 井尻家 宮川村板戸 解体

 丗八 冨田家 神岡町杉山

✕丗九 中村家 国府町

 四十 新井家 清見村池本 左下

✕四一 東屋家 白川村木谷

 四二 下方家 宮川村加賀沢 解体

✕四三 田畑家 清見村大谷

✕四四 水上(板倉) 河合村天生

 四五 前田家 上宝村神坂 中中

 四六 田口家 馬瀬村卯原

 

 以上の建物を見て廻る。

 この他杣小屋、木挽小屋、火の見、炭焼き小屋などを作るよう。

 

 民俗舘を合同し民俗舘跡は別の博物館とするよう計画したが、うな信、宗和、村山、元田、山下、等反対してならず。この人々も数年後には困ることになると思われる。

 

 建設の途中、田中家がもらえるようになる。国の重文になるよう手續をする。

 

四十五年六月、民俗村建設に決まり第一囬の会合を。これより先民俗舘の所屬を開発課に替える。

 

 会合は、観光、商工、土木、水道、農林、企画整調の各課に市長助役、開発課に私を加える。開発課は金を一時流用して土地の買収にかかる。土地買収には福田僚三君が主となってする。非常に困難な仕事である。

 

 三萬坪を買入れてから発表する。それまでは植物園を作るといっていた。

 

 四十六年六月から道路の工事にかかる(小糸焼の所より上)。稻刈がすんでから下の方にかかる。十一月に全部通し、民家建設の工事にかかる。

 

 追書 市長の命名で「飛騨の里」となる。

 建設と決定したとき、松倉の北側に土地を決めたため、そのほかに建設するよう一番始めに出した計画書

 

一、民家は理想としては元の地に建っていた地勢にあわせた方向に建てるのが一番良いが、現地は北に開いた土地で一應北側を正面としなければならないので、池を中心として、北西・北東・南東の方向に建てねばならない。髙地の方では道にそって南向の家を建てるのも可能である。

 

二、池の西側より旧松倉道に沿う道路ぞいでは、北部の家・杉山の冨田家・加賀沢の道上家・⻆川の吉眞家・二ツ家の松井家を建てる。冨田家は問屋場であったのであるから一番下の道端え、道上家はその上に北側をガケ造にし、吉眞家はその上で少し廣く取り、松井家は石積の上に敷地一ぱいに造る。松井家の上に御用場、その上に髙札場を造り、飛驒に於ける口番所の形態を残すようにする。從がって此の道は飛騨から越中えの二ツ口の道とする。

 

三、池の東側、上に向って飛騨の西部地方の荘川・白川の民家を建てる。越前の形の入母屋造り荘川村から白川村に入って、切妻合掌造りの家に発展□体がわかるようにする。加須良の西岡家、三尾川の金子家。

 

※欄外: 八月一日家の所有は三尾河の西蓮寺庫裡

 

一、池の南側上部、林の中に、飛驒東部の民家を入れる。蒲田(神坂)の前田家、阿多野郷の民家、双六の板倉等。

 

二、池の東部、林の中より山裾にかけて、飛騨の中央部の民家を建てる。ここでは南向に建てることは可能である。中藪家他。

 

三、ゴカミの谷に沿って、谷川を利用して杣小屋、木挽小屋、わらび粉小屋、水車小屋、唐臼等を建てる。その外側に南部の馬瀬、萩原地方の民家を建てる。

 

四、西側の雑木林の中から谷をへだてて、工芸部落十軒ほど造る。一位細工、笠、土人形、織物、木地師、陶器、染色、塗物(□□塗)、春慶塗。

 

五、民俗村は学術的にも、観光面にも重要な役割をします。美くしく絵のように作り、どちらから見ても山の四季の景色と民家が形よくとけあった景色にしたいと思います。

 

下の民俗舘の建物を上に移轉する用違のため、土地をあけけておく。

 

(追書 若山家を入れる予定の地に田中家を作った)

 

大体移轉できる建物の特長

 

・三尾河西願寺庫裡 八月一日家總代金子氏所有

カヤ葺入母屋両妻ホテ窓付屋根

越前東部の影響を受けて発達したもので、俗に荘川造りいわれる一間巾の廊下をもった家。現在荘川村にこの形の家は三軒のみ。明治二七年(一八九四)の建造。

 家の間取は若山家に似ているので、内部を改造して土間を大きくしてソリのコレクションを入る(寄贈)。

 

・白川村加須良

カヤ葺切妻合掌スヤ造り

 白川村北部越中桂峠一つ、越中の景響受けた造りで間口十間、十一の合掌と巨大なイヨウナ梁をもった豪快な民家。若山家對照するのによい(百五十万円)。

 

・白川村長瀬

・山下家所有ハザ小屋

 カヤ葺吹抜髙床切妻合掌造り

 四間✕3間の穀物を干し作業倉庫を兼ねた白川村得有のもの(買〆)。

 

・白川村御母衣 日下部家

カヤ葺切妻合掌造り

 五間✕3間の小形の民家で事ム所に使用する予定(解体費二十万円)。

 

・清見村池本 新井家

板葺切妻 切妻このき下し

 清見村奥地の系態の家で、間口九間、奥付六間、明治初年建造。途中屋根を補强したもので、タルキは4寸✕5寸、長さ三間余のものを使う(寄贈)。

 

・河合村⻆川 吉真家

カヤ葺入母屋合掌造り民家

 

 ムカイ柱という五本の木の又を利用した柱で、梁と桁を受けている貴重な遺構である。天保初年(一八二九~一八三五)、元田の部落に建てられたものを嘉永年間に小鳥川に流して⻆川まで運んだといわれ鳶口の跡がある。安政五年の⻆川の地震には一米前方にすべり出たという。木の又の家として貴重な家(二十万円)。

 

・宮川村加賀沢 道上家

カヤ葺入母屋合掌造り民家一面切落とし

 

 飛騨最北部の民家で、越中の影響を受けている。中央部を髙く組み、両妻に中二階を付け、加賀沢特有の造り。この家を一番早く買入れていた(三十五万円)。

 

・神岡町杉山 冨田家

カヤ葺入母屋棟合掌造り

 中央部を髙く組み、三方を通り抜けるように、両側は中に階、神岡(旧阿曽郡)。

 

・上宝村神坂 前田家

板葺両妻フキ下し二階建

間口、土間の巨大な家で、奥地であることを考がえるといえの立派さに驚ろく。ことに端折の石が美事。入口は馬と人が同じ。新らしいので、見せものにするより会場として使ったほうが良いと思う(百万円)。

 

・宮村山下 中藪家

板葺両妻 フキ下し

飛騨の中央部の古い土座住いの民家。野首家と匹敵する。江戸初期(寄贈)。

 

・匠神社(祭神と飛騨の匠を祀る)

 本殿には鈿神社の本殿を、□屋は加賀沢白山神社の拝殿、神明鳥居は同じ白山神社の鳥居(ケヤキ)。

※欄外: 追記 桐生白山神社より、石の鳥居をもらい使う

 

・舞台

 河合村の保の鈿女神社の二段の拝殿を舞台に、納菜殿を楽屋に、残材で花道を作るようにする。

 

優先するもの

 木挽小屋と杣小屋は、八軒町の狭間老に指導をたのむようにする。

 共に古い形式のものに復元する。

 

 土木課で用違した永田家を改造して、休憩所と便所と変電所を入る。

 

 なを南飛騨から二軒用違する。

 松井惣兵ヱ家を移轉して二□屋番所を作るようにする。

 

※欄外: 追書 金山町卯の原より田口家を入る 寄贈

 

 日和田か野麥から妻入の家がほしく、野麥の西家がいいと思う。

※欄外: 追書 西家は高根村で出さず、大野家を入れる

 

・わらび粉小屋

 朝日村中洞の西ノ谷の上から二番目の水車を買入れる。

 

・水屋小屋

 丹生川村久手の水車を使いたい。現在民俗舘にあるもの。

 

・唐臼小屋

 荘川村三谷の小屋を使う。舟杵は二本を使うようにする。又小屋を少し大きくしてポンプを入れておき、急場の間に合うようにする。

 

・工芸村

 刈安家 丹生川町方、髙山本母町 直井家、古川町大村の小林家、紺谷家 河合村舟原、大畑家 清見村大谷、久々野町渚 西永家、宮川村牧戸 井尻家、宮川村加賀沢 下方家、宮村上□ 冨田家。以上九戸を解体している。

※欄外: 井尻家はバラシテ 紙小屋他に使う

 

 大地の名が必要というので、

 ゴガミの谷の下にあり、ゴカミの水を主として入れているので、吾神池と名付ける

 

火の見は奥原組によって新らしく作り、鐘は京都東本願寺前で買ってきた。二万五千円。

 

建設について

 助役より、東京からコンサルタントを呼び、總体の計画を作ってもらうよう提案があったが、教育委員会の明野氏、観光課の神田氏から、その必要はない、その仕事は長倉で良いとの発言がある。私もコンサルタントの費用で民家は一軒できると思った。しかし資金を備入れるために権威あるものが必要という。

 それならばと私が提案したのは、権威のある人に意見具申書を書いてもらうようにすることで、具申書を作り、見てもらって、サイント印をもらうようにする。

 たのむ人は、

 

文化財保護審議会専門委員

国立東京大学名誉教授

観光文化財保護協会長

藤島 玄次郎 氏

 

文化財保護審議会専門委員

東京家政学院大学教授

服部 勝吉 氏

 

早稲田大学名誉教授

日本観光協会顧問

今 和次郎 氏

 

文化財保護審議会専門委員

名城大学教授

祝 宮靜 氏

 

日本民藝舘〃長

人 間 国 宝

浜田 庄司 氏

 

 その他、宮本馨太郎氏にたのむ。

 

建造物の復元について

 

一、方向

 できるだけ現地にあった方向に建てたい。建物の間取、屋根の向きなどは日照、風向等に関係がある。しかし移轉地の関係でそれができない場合は、建物にそのむねを明示しておいてほしい。

 

二、地勢

 方向にも関係あるが、平地に建っていた場合、一部が崖造りとなっている場合、作り出しとなっている場合などは、そのままの形に復元してほしい。

 

三、地盤

 置石、礎石はうち石、石垣などはコンクリートで固めて堅固にしなければならないが、これらの石は川石を使はづ山石とすべきだ。コンクリートはかくして外側から見えないように注意してほしい。

※欄外: 川石は丸石のこと

 

四、間取

 間取は後世その時点に於て使いやすいように改造した場合が多い。できるかぎり創建時の姿にもどしてほしい。

 

五、補築

 後世に補築をおこなって家を大きくしている場合が多い。補築と明瞭にわかるところは徹去したほうがよい。逆に縮めている場合もあり、その部分が創建時の姿にもどすことに、可能なら補築して復元したほうがよい。しかし無理な補築をして価値を矢なうようなことがあるから慎重にされたい。

 

六、補強

  建物自体が古くなっており、その上多くの人を入れるのであるから、補強を充分にしなければならない。

1、地固めを十分にすること。見えないようにコンクリートを使用して強固にすること。

2、鉄金物を利用して補強することは必要なことであるが、見えないように隠すこと。

3、ホゾ、穴等は魔滅している場合が多い。十分注して補修して建てること。

4、隠すことができれば壁の中にスジカイを入れたい。この場合、木材でも金物でもよい。

 

七、追加材 

 古い建物であるから追加材の必要がある。古材のよいのがあればそれにこしたことはないが、無理をして永持ちのしないものを使用する必要はない。また古いから良いといって古いままにして置いて災害を起(管理人註: 原文では⿺走巳)こともある。新材も使用して強固にしておかなければならない。ことに多くの観覧者を入れるから、根土、二階梁、枝敷等に注意されたい。

 

八、屋根

 忠実に復元することは大切であるが、年々腐蝕による補充と人件費に多大の圣費がいるから、復元に際して充分な補強工事をしておく必要がある。

1、カヤ葺の場合、頂部を充分補強して十年ぐらいは手を加えなくてもよいようにする。そのためには桧材、トタンを使用することもよい(下から見えないように)。

2、板葺の場合は重要な建物のみを板葺とし、あとは亜鉛版を板葺に見えるように使用したほうがよい。なお、屋根は亜鉛版、銅板を使用しても建物の価値を落すようなことはない。

 

 飛驒民俗舘がこの度移轉して大きく生れかわるに際して、飛驒という地域に限定民家集団を作ることは非常に賢明である。

 民家はその地方の風土と習慣を强く受入れて発達したもので、その地域においてこそ意義がある。移転については慎重に忠実に復元されることを望む。

 

民俗舘の環境と附属建物について

 

一、家の周囲は現地にあったままの環境がほしい。ことに松井惣兵エ家のように昔時の姿にもどして舘内に似た地をえらび口番所そのものを復元したい。民家に不似合などの庭などは作らないように心掛けねばならない。

 

二、民家にはそれぞれの附属建物がある。それは生活の場である。便所、唐臼、燃料語や、作小屋、ハザ小屋、水車、漬物小屋などが、その家によって附属しているのが通例である。こうした附属建物もできるだけ移轉復元してほしい。

 

三、生活の変り目が家を改造したといえる。たとえば養蚕の発展による改造の場合などそのままにして置き、そのことをよく説明すること。

 

 從来の博物舘は陳列を主として生活のない博物舘であった。民俗博物館は民家の生活を再現してこそ意義がある。生きた博物館として特異な博物館の建設を望む。

 日本の民家生活を知る民俗博物舘として北海道、東北、関東、中部、関西、中国、四国、九州などに作る計画があります。関東には川崎の民家園、関西には豊中民家集団、そして中部には髙山の民俗舘として世界に紹介することができます。

 文化財方面から応援します。

 

民俗舘の環境

 

一、駐車場と切符売場

 駐車場は現在の倍以上の広さが必要である。駐車場の入口を舘の入口とし、入舘券を買った車が駐車場の中に入るようにする。理由1、入舘しない車が駐車場の中に入り入口附近を荒す、垣を越えている人がある、ゴミを捨てる。これに要する人件費は大きい。2、入舘のためでない車が駐車、あるいは車庫替りにする。入舘券売場はゲート式にして入舘者の多いときはゲートの口を多く開けるようにする。

 

二、池について

 民俗舘の道路は、道の南側を道と大地の土手の間に駐車場を借り、北側を道路にそって細長い池を掘る。池を掘った土を駐車場に盛る。この下の地は余り土を入れる。また水洗浄化槽の水、和紙を作った水、染色した水はろ過して入れるなどしてため、下流下流の水田に流す。上の水を調節し常に上の池の水を平時にたもつようにする。道路の中側が池であることにより、民間の調□を取れない家を建てることを防ぎ、□化から守ることができる。下の池はプールのようなコンクリート壁でも石積でも土でもよいが、上の池は自然のように從来ある石積は残し、その石積をかくすように松倉石を置き、土手の部分は常緑の潅木を植えて風積をただす(ツツジなどもよい)。池の外側の土手には白樺を植えて、白樺林にするのも、桜の林でもよい。

 

三、遊歩道

 道路は舗装されて土を踏むことの少なくなった今日(今後増々少なくなる)、人々は土を踏むのを喜こぶようになる。民俗舘の遊歩道は土の道にしておきたい。幹線は3~4米とし、消防自動車を入れるようにしなければならないが、幹線をつなぐ道は2米ほどにして、側溝は石積又は土として、溝にはワスレナ草、ユキノシタなどを植える。所によってはススキ、萩を両側に植えて野趣をだす。

 

四、民家の周囲

 庭をもった民家には、それに似た庭を復元するのはよいが、不釣合な庭なら作らぬほうが良い。農家であった民家と、その家の周囲に梅、桃、柳など林を作り花と実を共に楽しむようにするのもよい。場所にっては梨、リンゴ等の林を作っておおけば入舘者は喜こびまた売ることもできる。こうすることによって都會の人は民俗舘に故郷を求めてくるようになる。

 

五、電源など

 電気、電話などの柱、線とは地中に入れて見えないようにする。

 

六、湿地帯について

 民俗舘の上部にある小池や湿地帯には水バショウ、ジュウサイ、水蓮、オモダカ等を植え、また池の出入口にあたる浅瀬にはアヤメ、カキツバタ等を植えて花をたのしむようにする。

 

七、花畑

 ボタン、シャクナゲなど色々の花は工芸集団の人々に委嘱してテーマを作って花畑を作る。

 

八、雑草地

 自然のままの雑草地も作り、薬草などを植える。また馬の血取り場、石地蔵、五輪塔、宝塔の集落などにはマンジュシャゲなどを植え、入舘者の印象を强くする。

 

九、手洗・休憩所・売店

 入舘者は時間予定があり、三〇分、一時間、三時間、半日、一日等のコースを作り、そのコース内に手洗、休憩所、売店、食堂などを作る。建物は古い民家を利用し、手洗は内装を美くしくして水洗にする。休憩所は建物の大きさにもよるが手洗、賣店を併せるようにする。賣店で売るものは飛騨で作ったものに限定し、日本全国どこにもあるような土産品は置かないようにする。飛騨のカラーを强く出す。

 

一〇、自然

 民俗舘の中はあくまで自然の姿を保ち、できるだけ立木は切らない。巣箱を作って鳥を集め、飼付をする。田には農薬を使わないようにして、螢、河鹿を飼い魚を保護する。

 

十一、服装

 民俗舘に務(管理人註: 原文では⿱敄力)める人、工芸集団に住む人々もできるだけ古い衣□を着たほうがよい。これは無理なことであるが、年に数囬年中行事の行事を行なう日だけでも実行したいことである。

 

十二、結語

 この民俗舘が理想どおり完成すれば全国から修学旅行などもくることでせう。必ず成功します。

 

民具と民俗

 

一、民具は民家の生活の厂史を知る貴重なものである。生活用具は各民家にそれぞれ、生活の場において昔時の生活をしのぶ資料とすることは大切である。

 

二、生産用具も同じように陳列しておくことは大切である。その内でも各テーマによって民家を利用して陳列することが必要である。独立したコレクションも各民家をえらんで陳列する。木挽小屋、杣小屋、わらび粉小屋などは、その個や自体の専門用具を置いて生かす。

 

三、工芸集団の家にもその工芸の資料用具陳列する。

 

四、養蚕、糸取(紡)、綿むきなど古い製法を公開すると同時に若い人々に(民俗舘員)伝承させるといい。

 

五、民俗については、飛騨の各地の民家が集まるのであるから、その土地の風習、年中行事などを年間を通じて行なうようにすること。正月飾、亥ノ子、初午、節供、盆祭、七夕、年末行事等、その土地の習俗を再現するのも必要である(田植えなどは年中行事の中に入れて古式で行なう)。河合村大字保の氏神の拜殿(舞台)が移転の対象になっているが、この舞台利用して民俗芸能がたとえ一年に数回でも公開できれば、民俗芸能保存の上からも喜こばしいことである。甚五郎堂は工芸集団の方に置いたほうが良くないか。保の神社の本殿のあった場所に石積でよいから本殿跡を作って置いてほしい。石段利用の衆桟敷を作るとよい。完成すれば日本最良の民俗舘となることでせう。立派に完成されることを望みます。

 

工芸集団について

 

 工芸集団を民俗舘の中に入れて飛騨の工人を住ませ、工芸製作工程を見せることは、農家を入れて田を作り、畑を耕やすことと共に、生きた博物舘として他に例をみない企画であり是非実現してほしい。

 

一、工人は作った作品を求めに応じできるが、他から仕入れて売ることはできないようにする。土産店になることができない。

 

二、工芸の種類により、民家も適当な民家を使用するようにする。また原材料の置場等を考慮して、多量の原料を使うものは外側に、少ないものは内側に入れるようにする。

 

三、工人の作ったものは陳列所のようなものを作るが、特殊な売店を作るかしてまとめて売るような方法がよい。

 

四、民家の中に住み仕事をする場合、一番大切なことは火気である。日常使う炊事場、風呂場は別棟の家(五□)ほどのものを作って別棟にしたほうがよい。これができなければ充分注意するような条例を作る必要がある。

 

五、民家の保存に対する責任、仕事の内容、工人の転業等にて工芸集団から退団するなどのことを考がえて工人に土地を貸して民家も民俗舘で作って条例にもとづいて借貸したほうがよい。

 

 なを工芸集団には强力な指導者を置き、指導し、意見をまとめることが必要である。

 

 以上のような文面を作り、前記の六氏に見てもらい、サインと印をもらって来て、「飛騨民俗村建設に對する意見具申書」を作って提出する。東京、藤沢、相模原、益子へ出張二日間。

 

昭和四十五年十一月、工事着手(道路はその前から)。

工場関係者

清水建設 小村家、直井家

奥原建設 はざ小屋、西岡家、苅安家、火の見

古橋建設 中藪家、匠神社

永山建設 吉眞家解体

野中□□ 道上家解体、カガソ白山神社解体

髙原建設 前田家、冨田家、田中家

田川建設(鶴) 吉直家、日下部家

鈴木建設 八月一日家、道上家

山源組 紺谷家

 

造園外かく、田川組(鶴)、田川組(勇)、山源(□)組、川長組

 

 雪の中を冬中工事を續け、四十六年五月、六月の二ヶ月は毎日行き中食も工事場でする(完成後礼金七万円もらう)。七月一日、開村式。記念品に、村の全景の絵を書いて柚原染店で染めた手拭を出す。

 

 全工事費、二億四千万円。工事の最成期は三百人の人が働らく大工事であった。

 

 炭焼窯は坂田君が作る。

 道路は八米を主張したが、一方通行にするというので六米にした。駐車場が千坪、予定より少ない。この二つが将来困ることができるだらう。

 

(管理人註: 以上毛筆による筆記。以下はボールペンによる追記)

 

平成二年記

 

匠神社隋神作者 古川町 谷□千代之助

炭焼窯 作業員 坂田さんが作り、昭和五十九年修理をする。

キツネ格子の作者は、八軒町 岡本俊平さん作。

秋葉様の台石は、作業員 梶井房吉さんが停年退職の記念として寄贈。

荘川村にもう一軒あった切妻合掌の家 海上 小林友之助

杣小屋、木挽小屋は当時八軒町に住んでおられた狭間老に指道して建てました。

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