わが青春の本 芦花と紅葉
わが青春の本 大正時代の暗さの中で華麗な小説の世界を知る
昭和四十五年九月
中日新聞に我が青春の本として書いたもので、副題に「蘆花と紅葉」として著者と作品には蘆花と紅葉の作品の説明が入れてあった。
私の青春時代は暗い時代であった、と思う。憲政会の政府の消極政策は深刻な不景気を生み、当時京都の泉涌寺で陶画を描いていた私も仕事がなくなった。
町々はマージャンがはやり始め、 “私のラバサン酋長の娘 色が黒いが南洋じゃ美人” とカフェから歌声が聞こえた。プロレタリヤ文学が盛んで “円本” がはんらんしていた。
当時の私は故郷がなつかしく郷土の作家の本をあさった。森田草平の “煤煙” や江馬修の “受難者” などを讀んだが、この大正の自然主義文学のくどくどしい描写は、私には好きになれなかった。少年時代 “豆本” という昨今の漫画のような英雄豪傑のでてくる本を讀みふけったものであるが、これがあきた頃、友達の家から借りてきたのが蘆花の “不如帰” であった。小学六年生がこの本を讀んで驚き小説とはこうゆうものだと初めて知った。圖書館で紅葉の “金色夜叉” を見つけて借りようとして小学校を定年でやめて圖書館に勤めている先生に、お前らの讀む本でないとしかられたが、かくれて讀んだ。この少年時代に讀んだ流暢な明治文学の名文が頭から離れず、大正文学忌避になったと思う。 “今昔物語” を讀んだのは “飛騨の匠” や “猿丸” を讀みたかったのであり、 “平家物語” を讀んだのは巻頭の劔の巻の小鳥丸の太刀の項を讀みたかったからである。しかしあの大仏殿が重衡に攻められ炎上する場面の描写に感激したのは今でも忘れられない。くずれゆく平家の末路の哀れさが身にしみて感じたのも、当時の世相の暗さのせいだったかと思われる。
京都で職を失い再度瀬戸市に行ったのは昭和六年か七年だったか、瀬戸で隣に住んだ宵堂老人の本棚から引ぱり出した本が白楽天の詩集だった。詩というものが森羅万象これほど美しく表現できるものかと驚ろき、誌のとりこになりかけたとき、中島彰壹氏にいわれたのが “商人は浅く広く、工人は深く狭く” ということわざであった。私の文学書を讀むものはここで終ったといっていい。それまで持っていた本を売って、世界美術全集を買った。私の美術工芸への開眼はこの全集から始まった。
その後、陶磁器に関する参考書が、私の青春は埋った。また髙山から送られてくる “ひだびと” という月刊誌が私を民俗の世界に引込んだ。いつかは飛騨に帰る。飛騨の厂史や民俗を知っておかねばならないと飛騨で発行される本を求めて讀んだ。
私の青春時代は浮いたはなやかな時代ではなかった。不景気だった。満州事変も起きた。青春時代に讀んだ本、見た本、考古民俗の本は、後年私の役に立っていると思う。