小糸焼について
《小糸焼の歴史》
寛永年間(1620年代)、飛騨藩主であった金森重頼公が、都に在住していた兄、金森宗和公(茶道宗和流の開祖)の斡旋を得て京より陶工を招き、高山市の西、小糸坂の地に陶器を焼かせたのが始まりです。(第1期小糸焼)
しかし、おそらくは寒冷地で窯業に適さなかったのでしょう。やがて廃業しました。高山市郷土館には初期小糸焼の伝世品が展示してあります。
それから200年ほど下った天保七年(1836年)、高山の豪商 細江嘉助と平田忠右衛門が瀬戸から陶工・戸田柳造を招き、おなじく小糸坂に築窯、作陶を始めました。しかし、これもわずか5年で廃業。 柳造も瀬戸へ帰ります(第2期小糸焼)。
第2期小糸焼の伝世品は少々あります。「白いもの(磁器)を地元で作りたい!」という強い意志が見て取れ、発掘品の中には稚拙な染付が確認されています。つまり、小糸焼は飛騨で初めて磁器を焼いた窯ということになります。
瀬戸に帰った戸田柳造は飛騨代官に再び呼び戻され、「松倉陶石」を発見。ついに磁器の製造に成功しました。これが後の「渋草焼」です。
窯跡は現在の飛騨高山美術館横の土手にあります。また、小井ト(「こいと」の意味)の印のあるサヤ(灰を被らないように品物を保護する窯道具) も発掘されました。
現在の窯(第3期小糸焼)は故・長倉三朗により、同じく小糸の地に復興されたもので、自動ろくろや鋳込型などを使わず、ろくろや板作りなど、すべて手づくりでつくっています。
「小糸焼は何件あるのですか?」とたびたび尋ねられますが、いわゆる屋号であり、備前焼、あるいは瀬戸焼などの地域の窯の総称ではありませんので小糸焼窯元は一軒だけです。
奇しくも三代目小糸焼現当主 長倉靖邦(号 泰山)は飛騨高山茶道宗和流十六世を拝領しておりました。
《小糸焼の特色》
小糸焼の釉薬には、「伊羅保(いらぼ)釉」と呼ばれる、茶色の色合いですこしざらっとした質感の伝統釉を基本に用いています。この色合いと質感は釉薬に含まれる赤土と木灰によるものです。当窯では飛騨の各地で採取した赤土と、工房の薪ストーブを使用したあとに残った灰を使用しています。
焼きあがると堅く焼き締まり、釉薬も緻密なため食品のにおいなどがつきにくく、普段使いの食器として気軽に使っていただけます。 また、釉薬の性質上使いはじめには少しざらざらとしていますが、使い込むうちになめらかな肌ざわりとなり、色もどんどんよくなってゆきます。
釉薬にはさまざまな原料を用い、その種類や配合は窯元や陶工によって千差万別です。
当窯では植物を燃やした灰や飛騨の各地で採取した赤土など自然界からとれる原料を主に用い、呉須や鬼板、弁柄といった伝統的な顔料と組み合わせながら、より「小糸焼らしい」うわぐすりの探求をつづけています。
小糸窯二代目当主 長倉靖邦は、この伊羅保釉に顔料を加えた「青伊羅保釉(あおいらぼゆう)」を産みだし、一番人気の色となりました。青伊羅保釉の深みのある渋いコバルトブルーは、全国でも小糸焼にしかありません。
当サイト現管理人の父である長倉大がこれに改良を加え、その人気を不動のものとしましたが、この二人が相次いで世を去ったことでノウハウの一部が失われ、現在では目指すような色が出なくなってしまいました。
ただ、四代目当主である私としてもこの「青伊羅保」はぜひ復活・復興を目指すべきところのものであると思っており、窯を焚くたびにさまざまの青い釉薬を実験しています。色々と試す中で思いもよらぬいい色合いが出ることもあり、言ってみれば古い小糸焼を温めようとするうちに新しい小糸焼を知るという具合です。
《作る人》
・大学でチェコ語を習う。
・卒業後、チェコで日系銅管工場の使いっぱしりに。
・いろいろあって帰高し窯元を継ぐ。
・2023年、名古屋高等技術専門校窯業校を修了。
・このサイトの管理人です。
《作っていた人》
昭和34年から焼き物の世界に入り、小糸焼を継ぎ、また時期を同じくして飛騨高山茶道宗和流の門をたたきました。
私は常に「もてなしの心」を大切にしながら、手頃で使いやすいうつわを、皆様にご提供できればという思いで、やきものに60年間取り組んでまいりました。 40年近く前、「伊羅保」という伝統的な釉薬をアレンジし、「青伊羅保」という、まったく新しいうわぐすりを生み出せたことは私の作陶人生の中で、もっとも大きな出来事です。
「茶心」への思いも強く、抹茶碗、水指、茶入などの茶道具にもちからを注いでいます。
日本のやきものの特長は『自然との調和』だと思います。 私は日本人の心に深く流れている日本の美意識を大切にしながら、現代生活にマッチし、生活に潤いが得られるやきもの作りを目指しています。
現在、小糸焼窯元のメインのうわぐすりは「伊羅保釉」です。伊羅保のもつ味わいや質感はもちろん大好きですが、そのほかにも自由自在にいろんな土やうわぐすりを使って焼き物を楽しみ、造ってゆきたいと考えています。
小糸焼窯元内に私自身の自由な創作場として、実験的工房内工房「スタジオD-N-Q」を持ち、小糸焼とは違ったテイストの作品作りに挑戦しています。
長倉三朗 (1911~1997)
・旧制斐太中学を中退後、瀬戸で18年間やきもの(特に絵付)に従事する。その間、加藤春二氏に師事。
・戦後郷里に戻り、高山市西郊・小糸の地に江戸天保年間以来途絶えていた小糸焼を復興する。
・「木の股の民具」コレクションや「飛騨の里」創設など、民俗学研究にも大いに携わる。
・『飛騨のやきもの』(アポロン社・1969年)、『日本の民俗〈21〉岐阜』(第一法規出版・1974年)、『高山祭屋台雑考』(慶友社・1981年)、『高山・飛騨路(ブルーガイドブックス)』(実業之日本社・1989年)など、著書複数。