《 小糸焼の歴史 》

    • 茶道宗和流開祖 金森宗和公
■寛永年間(1620年代)、飛騨藩主であった金森重頼公が、都に在住していた兄、金森宗和公(茶道宗和流の開祖)の斡旋を得て京より陶工を招き、高山市の西、小糸坂の地に陶器を焼かせたのが始まりです。(第1期小糸焼)

■しかし、おそらくは寒冷地で窯業に適さなかったのでしょう。やがて廃業しました。高山市郷土館には初期小糸焼の伝世品が展示してあります。

■それから200年ほど下った天保七年(1836年)、高山の豪商 細江嘉助と平田忠右衛門が瀬戸から陶工・戸田柳造を招き、おなじく小糸坂に築窯、作陶を始めました。しかし、これもわずか5年で廃業。 柳造も瀬戸へ帰ります(第2期小糸焼)。

■第2期小糸焼の伝世品は少々あります。「白いもの(磁器)を地元で作りたい!」という強い意志が見て取れ、発掘品の中には稚拙な染付が確認されています。つまり、小糸焼は飛騨で初めて磁器を焼いた窯ということになります。

■瀬戸に帰った戸田柳造は飛騨代官に再び呼び戻され、「松倉陶石」を発見。ついに磁器の製造に成功しました。これが後の「渋草焼」です。

■窯跡は現在のサンクチュアリコート高山横の土手にあります。また、小井ト(「こいと」の意味)の印のあるサヤ(灰を被らないように品物を保護する窯道具) も発掘されました。

    • 茶道宗和流十六世 長倉泰山

■現在の窯(第3期小糸焼)は故・長倉三朗により、同じく小糸の地に復興されたもので、自動ろくろや鋳込型などを使わず、ろくろや板作りなど、すべて手づくりでつくっています。

■「小糸焼は何件あるのですか?」とたびたび尋ねられますが、いわゆる屋号であり、備前焼、あるいは瀬戸焼などの地域の窯の総称ではありませんので小糸焼窯元は一軒だけです

■奇しくも小糸焼現当主 長倉靖邦(号 泰山)は飛騨高山茶道宗和流十六世を拝領しております。

《 小糸焼の特色 》

    • 人気のぐい呑み

■原土は高山市より北約20kmの飛騨市古川町の山土に加えて、耐火度(火に対する強さ)を上げるため、瀬戸の白土を混ぜています。

■伝統的な釉薬である、「伊羅保釉(いらぼゆう)」と呼ばれる、茶色の色合いですこしざらっとした質感の釉薬を基本に用いています。この色合いと質感は釉薬に含まれる赤土によるもので、当窯では飛騨の各地で採取した赤土を使用しています。
 
■近年、この伊羅保釉に顔料を加えた「青伊羅保釉(あおいらぼゆう)」を産みだし、一番人気の色となりました。青伊羅保釉の深みのある渋いコバルトブルーは、全国でも小糸焼にしかありません。現在は顔料の配合を変えた青、茶、うぐいすの3色のうわぐすりを用いています。
 

■焼きあがると堅く焼き締まり、釉薬も緻密なため食品のにおいなどがつきにくく、普段使いの食器として気軽に使っていただけます。

■また、釉薬の性質上使いはじめには少しざらざらとしていますが、使い込むうちになめらかな肌ざわりとなり、色もどんどんよくなってゆきます。

    • 青伊羅保釉の拡大写真

■当窯で調製・使用している釉薬のうち、たとえば青伊羅保を細かく見てみますと、青だけではなく、黄色や茶色といったさまざまな色のドットが混ぜ合わさって、発色しているのがわかります。これが、色の深みが出る理由です。

■釉薬にはさまざまな原料を用い、その種類や配合は窯元や陶工によって千差万別です。当窯では植物を燃やした灰や飛騨の各地で採取した赤土など自然界からとれる原料を主に用い、呉須や鬼板、弁柄といった伝統的な顔料と組み合わせながら、より「小糸焼らしい」うわぐすりの探求をつづけています。