《苦言一束 他九》

一. 苦言一束  市民時報 S26. 二月十日(水)
二. 民家の保護 朝日新聞S39
三. わが青春の本 芦花と紅葉 中日新聞S45 9月
四. 卯の花 毎日新聞
五. ふるさとの今昔 朝日新聞 息吹く江戸文化 のち学芸書林から單行本
六. 焼物修行 S48 7月 毎日新聞(東海散歩)
七. 東北ノ観光地に学ぶ 飛騨民芸協会通信 市民時報
八. 赤木清さん 江馬修遺稿集
九. 五月の頃 朝日新聞
十. 季節の味(アブラエ) 朝日新聞

  • 苦言一束 髙山祭に寄せて

    昭和廿三年二月十日の水曜日発行
    市民時報にかいたものでこの續を書いたと思うが残っていない。

髙山祭に寄せて

 正月の名古屋驛はスキーかついだお客でゴッタ返していた。信州に行く汽車に乗ることができず引返した人が多くあるのに髙山線沿線のスキー場に来る人は無かった。名古屋驛には十数種の信州側のスキー誘致ポスターが貼られているのに飛騨側のポスターは一個も見あたらない。
 昨年坂上(サカガミ)のポスターを見て来た私の友人達は吊橋に驚ろいて「楽に渡れる様に架替ったら又来る」といって帰った。いかに施設の貧弱のことよ、宣傳の下手なことよだ――。

 最近本年度の観光スケジュウルなるものを見て驚ろいた。山王祭から八幡祭の大祭までの期間、駅前に杉葉の大鳥居を建てるというのである。
 一体杉の鳥居がどれほど宣傳効果があるか。駅を降りた人が鳥居を見て喜こぶだらうか。少なくとも飛騨号を走らせたいというのであるからこれまでのように髙山周辺の人々を髙山に集めるつもりではなからう。それならば珍らしくもない、美しくもない鳥居を駅を降りてから見せるより、汽車に乗る人を一人でも多くしなければならない事がおわかりになりませんか。

 杉葉鳥居を作る費用で名古屋や岐阜、富山の駅に四月一日頃から髙山祭を宣伝なさい。写眞は写眞屋アマチャー氏の芸術的香りの髙い(絵葉書写眞でないこと)写眞の原版を借りて廿センチ――三センチの写眞を作り三尺ぐらゐの壁面に四尺ぐらゐの足を付け、これをいくつもつないで折畳式の屏風の様にして裏表を利用すると場所もとらず効果がある。鉄道とタイアップして待合室にも天気の良い時駅前の野天に置いても良い。又名古屋駅のような広いコンコースある駅は相当大きなものでも差しつかえない。
 これを一度作って置けば登山スキー或は飛騨の風物等、時に折に写眞を取替て使うことができる。まづ駅前に鳥居を作るよりわこの方をお進めする。

 またポスター三千枚をとか作られるそうですが先年の山王大祭のポスターは十数年前の大祭の時の圖案をそのまま使ったという呆れかえったものであった。優秀なポスターはそれだけ宣伝力があることを知るべきである。
 また今までのに出たポスターは色調が悪く陰気な物が多いがもっと明るい色調にすべきである。祭のポスターは下手な圖案を書いてもらうより屋台(エビス台、五台山、鳩峰車)の斜めうしろより見た写眞を原色にして使ったほうが効果がある。

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  • 民家の保護

    朝日新聞学芸欄に書いたものである 昭和39年

 洛中洛外の圖を見ると町の中でもムシロを掛けた家がある。農家ではムシロを吊り土間に藁を敷いて生活した時代は明治の初期まで續いたものと思われる。私の子供の時代は戸を開けて締めないでをくと “コモカケ育ち” といってしかられたものである。コモカケというのはコジキの代名詞のようなものであるが実は農家にもコモカケの家があったのである。

 明治の始じめ歐米の文化が入ると古いものは片っはしからこわした。ことに城などは無用の長物とばかりに次々とこわした。そのうち文部省は古い建造物の保護にのりだし特別保護建造物という制度を作ったがこれには庶民の生活にはほど遠い寺院、城郭、宮殿等でのちに民家も加えられたがそれは庶民とは縁のない大きな邸宅に限られていた。実際に庶民が生活し子孫を育ぶくみえんえんと續いた厂史あとをしる民家や民具が保護される様になったのは、戦後文化財保護委員会が発足してからである。
 文化財委員会が民家の場合、重要民俗資料の對照とするのは現地にあるもので、移築したものは指定の對照から除外したのは最もできしたそちであらうと思われる。

 民家はその土地に出来るものを材料を使用しその土地風土に合うように造られたもので金にあかして遠方より珍貴な材料を集めた大邸宅や宮殿とは違うものである。最近古い民家を保護のめいもくで中央に移築集中しようとする動きがある。これなどははたして良いことであらうか。民家はその土地の空気をすい雨や風、また雪をのせてきたものである。その土地にあってこそ意義がある。
 飛騨の山奥の家や民具を東京まで見に行かねば見えないなどということになったらどうであらう。こんな馬鹿げたことはない。しかし現実はそうしたことになりつつある。民家や民具を現地で保存するほうさくを早急にたどる必要がある。

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  • わが青春の本 大正時代の暗さの中で華麗な小説の世界を知る

    昭和四十五年九月
    中日新聞に我が青春の本として書いたもので、副題に「蘆花と紅葉」として著者と作品には蘆花と紅葉の作品の説明が入れてあった

 私の青春時代は暗い時代であった、と思う。憲政会の政府の消極政策は深刻な不景気を生み、当時京都の泉涌寺で陶画を描いていた私も仕事がなくなった。
 町々はマージャンがはやり始め、 “私のラバサン酋長の娘 色が黒いが南洋じゃ美人” とカフェから歌声が聞こえた。プロレタリヤ文学が盛んで “円本” がはんらんしていた。

 当時の私は故郷がなつかしく郷土の作家の本をあさった。森田草平の “煤煙” や江馬修の “受難者” などを讀んだが、この大正の自然主義文学のくどくどしい描写は、私には好きになれなかった。少年時代 “豆本” という昨今の漫画のような英雄豪傑のでてくる本を讀みみふけったものであるが、これがあきた頃、友達の家から借りてきたのが蘆花の “不如帰” であった。小学六年生がこの本を讀んで驚き小説とはこうゆうものだと初めて知った。圖書館で紅葉の “金色夜叉” を見つけて借りようとして小学校を定年でやめて圖書館に勤めている先生に、お前らの讀む本でないとしかられたが、かくれて讀んだ。この少年時代に讀んだ流暢な明治文学の名文が頭から離れず、大正文学忌避になったと思う。 “今昔物語” を讀んだのは “飛騨の匠” や “猿丸” を讀みたかったのであり、 “平家物語” を讀んだのは巻頭の劔の巻の小鳥丸の太刀の項を讀みたかったからである。しかしあの大仏殿が重衡に攻められ炎上する場面の描写に感激したのは今でも忘れられない。くずれゆく平家の末路の哀れさが身にしみて感じたのも、当時の世相の暗さのせいだったかと思われる。

 京都で職を失い再度瀬戸市に行ったのは昭和六年か七年だったか、瀬戸で隣に住んだ宵堂老人の本棚から引ぱり出した本が白楽天の詩集だった。詩というものが森羅万象これほど美しく表現できるものかと驚ろき、誌のとりこになりかけたとき、中島彰壹氏にいわれたのが “商人は浅く広く、工人は深く狭く” ということわざであった。私の文学書を讀むものはここで終ったといっていい。それまで持っていた本を売って、世界美術全集を買った。私の美術工芸への開眼はこの全集から始まった。
その後、陶磁器に関する参考書が、私の青春は埋った。また髙山から送られてくる “ひだびと” という月刊誌が私を民俗の世界に引込んだ。いつかは飛騨に帰る。飛騨の厂史や民俗を知っておかねばならないと飛騨で発行される本を求めて讀んだ。
 私の青春時代は浮いたはなやかな時代ではなかった。不景気だった。満州事変も起きた。青春時代に讀んだ本、見た本、考古民俗の本は、後年私の役に立っていると思う。

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  • 卯の花 昭和廿年六月

    この文は毎日新聞に書いたものであるが季節のずれがあるというので焼物修行に書き替えたので発表しなかったものである


 咲き遅れた卯ノ花が梅雨に打たれている。雨にぬれた、おくれの卯ノ花を見る頃になると、いつも終戦の年の六月のことを思いだす。三十才を過ぎて海軍に招集され對潜学校を出たが、乗る船はなく、校門を出たときからジプシー部隊となった。

『舞鶴へくるときは傘もってこい』といわれた雨の多い舞鶴へ呉から移動したのが六月であった。舞鶴での仕事は、堅い土を掘り起して芋を植えることであった。雨で冷たく濡れ、肌は汗でむされ、皮膚病になっても薬はなかった。やがて百五十人ほどの部隊を編成すると、生産兵という名で京都の日本電池で電池をつくる作業をすることになった。京都は二十代の頃一年間暮らした所であり、陰気な舞鶴から開放される喜びで、山陰線の汽車の中は明るい気分が支配していた。

京都での仕事・電池造りは人間の体を磨りつぶすようなものであった。この工場には龍谷大学の学生が勤労動員されていて、そのなかにかつて私が住み陶業に從事していた泉涌寺町から来ている学生がおり、彼れから泉涌寺かいわいの話を聞くのが救いであった。しかし一旦宿舎に帰れば地獄であった。

上官は兵卒の落度をさがすのに鵜の目鷹の目、落度がなければつくりだしてでも丸太ん棒で尻を叩く。彼れらは必らず、上官の命令は天皇の命であるといい、叩くことは山本権兵衛が始たのだから、恨むなら権兵衛を恨らめといった。私達の尻は内出血で黒いすじが何本もついた。こうした兵の中に、唯一人平気で、たたかれても、なぐられても自若としているのがいた。彼れにその心境を聞くと、
『上官、あんなものは地獄の羅卒さ。世の中で一番下等なやつじゃ。下級のものをいじめて喜こんでいる。たんと喜ばせてやれ。君らも叩かれんように気を使うより、たたかれていたほうが気が楽だぞ。禅宗の坊主の修行はこんな生やさしいものではない。相手が羅卒でのうて知識のある坊主だから。』
と答えた。目がさめる思いがしたが、とてもまねはできなかった。

 宿舎の廣間の窓は東に向かっており、東山が見渡せた。私は清水の塔が見えないかと毎日ながめたが見える日は少なかった。そのうち『今日はたくさん使った』『今日は使いかたが少ない』などと一人言をいう兵がいるのに気がついた。何のことかと聞くと『目の前のガスよ』という。この男、宿舎の前のガスタンクの、上ったり下がったりするのを毎日見ていたのである。こんなものに興味をもったのは『この窓から見えるもので動くものはタンクだけだから』という。なるほど窓から見える動くものは雲のほかガスタンクだけであった。窓のない、あるいはあっても何も見えない部屋に閉じ込められたら生きる望みを失うかもしれない。靜と動のアンバランスが人間をささえていることを知った。

 卯の花はもう一、二日で散ってしまう。

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  • ふるさとの今昔 息吹く江戸文化の心

     この文は朝日新聞日曜日版に書いたもので、格調高い町並(百年前の顔再現)、そして早船ちよさんが書き、私が現地の人として書いたものとを合せて発表された。新聞連載が終ってから学芸書林から単行本として発行された。昭和四十九年一月二十五日発行

 封建制度の末期、町人点火の髙山の町の人口は約一万人余、岐阜県が成立したときは県下一の大きな町であった。その髙山も半世紀後、早船ちよさんの生れたころの人口は倍の二万、それがちよさんがおばあさんになるこの頃やっと五万余、六万になるのは数年後という半歩遅々。欧米文化を急速に取り入れ、文明開化を歌い文句に日本古来の文化を破壞し、戦後は復興を急ぎ、やがて経済成長と太鼓をたたいているうちに、今度は過疎だ過密だとバランスを崩し、公害だ公害だと騒ぎ出す。

 こんな時代にわずかに人口がふえ、街の上空には青空が見え、町の中を流れる川にコイやマスが泳いでいるなんて町が残っているのは奇跡だという。明治・大正の文化におくれをとった髙山が、江戸文化を壞すことなく温存し、戦禍を免れた。今日の日本人は、かつて持っていたものを失ない、その失なったものを求めるのであらうか。髙山を訪れる人々が急激に増加した。この状態を高山ブームという。

 富裕の町人の住人で三町の一つ、三之町の一部は電柱を取り去り、江戸時代の町並みに復元し、二百年間飛騨の政治をつかさどった髙山陣屋は今、解体工事を行なっている。来年は天領政治をとった陣屋として日本唯一の陣屋がお目見えする。また消えていく農家や民具を保存して後世に残すため、飛騨の各地から集め造った民俗村「飛騨の里」は東洋一の規模を持つ民俗博物館として好評している。

 江戸幕府の時代、飛騨は軍備のない国であった。飛騨の治安は町民・農民自身の手によってなされた。政体の下部組織である五人組は組内から犯罪者を出さないようにあるためお互にいましめあった。この習慣は親切の押賣とも感じられたが、没交渉の都会人には、髙山人の素朴で親切だと感じさせる。飛騨を「日本の心のふる里」というのは二十世紀70年代に十九世紀のものが生きているということであらう。

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  • 焼物修業

    昭和四十八年七月
    毎日新聞(東海散歩)に書いた、もの。

 かつての焼物作りは賤民(せんみん)の仕事であったという。決して恵まれた生活の中から土器や陶器が生れたのではない。九州の陶業地で育った老陶工が『私達たちは大正時代まで土間にむしろを敷いて寝る生活をした』と話してくれた。私も昭和初めの京都での生活は屋根裏の板の間に布団を敷いて寝た。

 大正ごろの瀬戸で陶工になるための年期奉公中は“ヤロ”と呼ばれてコキ使われた。ロクロの技術は容易に教えず、ロクロ師のすきを見て覚えた。すべて芸は習うものでなく盗むものであり、一人前になるのに数年、あるいわ十年を要したというのはそのためである。とにかく雑役で暮す年月が長かった。本当に教える気、習う気があり毎日ロクロを廻せば一年ぐらゐで技法は習得するものである。

 陶器を作るという道楽は道楽の最高であり、また道楽の終局であるといわれた。現在のように電気やガスの簡単な窯が出来て、焼くという至難の技術が簡易化されると、ネコもシャクシも陶器作りを楽しめることになり、道楽の終局でなく道楽の初歩であるようになった。いたる所に塾や学校が出来、ロクロを習い共同で焼き、あるいは焼き上げてくれる、いたれり尽せりのサービスをしてくれる、奥様陶工や日曜陶工が出現する、これが一歩前進すると家の中に窯が出来ることになり、これを称して陶芸ブームという。

 私の陶房は民俗舘と飛騨の里の中間にあり、窯という字を知らない若者や分別臭い老人まで、訪れる人は多い。また陶芸修業を志す若者も来るが、陶業で身を立てるむづかしさを離して聞かせると二度と尋ねて来ない。こちらは、それでほっとする。時代が変わったからと言っても、つらい修業にたえられなければ大成しない。從がって預かった責任は果たせない。

 家に来た、数ヶ月たった子にさかずきを二千個作れといったことがある。半分ほど出来た時『大分慣れたな』というと得意そうに『同じように出来るようになった。もうトンボ(径と深さを計る定規)を使わんでも出来る』といった。すると隣でロクロを廻していた兄弟子(十年径験)が『生意気な、その作ったものを切って見よ』と断面が見えるように数十個を縱に切って見せ、この断面を見れば肉厚の違いがはっきりわかるだらうといい、それまでに作ったさかずき(盃)を全部たたきつぶし、最初から作り直させたことがある。戦前であったら、兄弟子はロクロホセ(ロクロを回転させる棒)でなぐったことであらう。

 何十年もロクロを回してきた老陶工が、一個々々ていねいにトンボを当て、しかも早い速度で仕上げていく。老陶工は決して手を抜かない。おろそかにはしない。

 展覧会が多く発表の機会が多くなり、世事に賢い陶工は陶芸家となって世にもてはやされ、豊たかな世活ができる時代になった。それが良いか悪いかは、時が解決してくれるであらう。

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  • 東北の観光地に学ぶ

    =民芸協会大会に参加して= と副題をつけて市民時報社に出す。

    東北の観光地に学ぶは飛騨民芸協会通信に書いたものであるが市民時報(二二三号)四九年七月二十一日号にも出した。

    民芸二十八囬大会(青森弘前)

    昭和四十九年六月六日 鶴岡市(湯ヶ浜温泉) 福住
    七日 弘前市(落合温泉) 落合ホテル
    八日 弘前市(大鰐温泉) 大鰐ホテル
    九日 青森市(蔦湯温泉) 蔦湯ホテル
    十日 盛岡市(花巻温泉) 千修閣
    十一日 東京都(上野ニューウエノ)
    十二日 帰る

  日本民芸協会全国大会(六月七日~十日)弘前青森の会議の終った九日の夕刻、エクスカーションのBコースを選んだ。飛騨民芸協会の人々を乗せた十一号バスが八甲田山の裾を巻いて宿泊地、蔦湯泉についたのは薄暗くなってからである。曇り空で周囲を見渡すこともできないが林の中のこの温泉が一軒のみの宿で何一つ遊ぶところのない温泉であることだけは知れた。湯は湯船の底板のあいだから吹出してくる。美くしい湯であった。木のコブや朽木を部屋はもとより広間から便所まで使った建物はやや食傷気味であるが、変な新建材を使った宿よりは良いと思った。感心したのは掃除の行届いていることで、その点旅館経営者も学ぶべきであると思った。

 翌朝早く朝露のなかを井口、渡辺、垣内のご婦人はスケッチに、江黒、三輪氏らは蔦沼をはじめ六つの沼をめぐる約三Kを朝食前に採勝すると熱心さであった。
 ちょうどこの日は詩人大町桂月の五十年忌とかで温泉前にある桂月の碑の前で祭曲があり、十和田湖を愛したという桂月の話は前日バスの車掌さんに
随分聞かされた。
 九時ごろ出発、蔦川に沿うて降り、焼山から奥入瀬の渓流に沿ってのぼる。舗装した道は川面と髙さがあまり変らずたえず道に竝らんで流れ、道と川との間に遊歩道があり、両岸から無数の滝が落下する。新緑の頃、秋の紅葉のころなら、いっそう美しいことだらうと思われた。

 ことに私の心を打ったのは山水の美よりも、奥入瀬の管理をする人の心である。自然をこわさぬよう配慮され、宣伝のための看板一つない。この道を見るとき、観光を看板にしている我々飛騨人は反省しなければならないと思った。
 このことは十和田湖、八幡平にもいえることで、八幡平の髙さは平湯峠ほどのものであり、特に景色が良いとも感じられないが管理状態に学ぶべきものがあると思った。バスが盛岡に着いたのは十九時、大会行事はここで終った。

 㐧二十六囬全国大会を通じ感じたことは、青森県の人々が素朴で親切であったこと、見学コースを見て、飛騨人が観光という看板をかついで人が悪くなりつつあることについて反省させられたことである。東北の人々も観光事業に心をうばわれ、悪賢しこくならないことを願う気持ちであった。
 友人の料治熊太氏がかつて私に「素朴な人ほど金もうけを知ると最も俗悪な人になる」といったものである。
 ここらで高山人も考えないと、元も子もなくなる、のではないか。私が全国大会から知り得、学び得たものは、直接民芸に関することよりも、このことであるが、結局民芸の精神にも通じることでもある。

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  • 赤木清さん

    江馬修遺稿集 ひろい世の中No.5 一周忌記念号に書いたものである。

    発行日 一九七六年(昭和五十一年)一月二十三日
    編集 二木宏二
    発行者 天児直美
    〒七〇九 - 四三 岡山県勝田郡勝央町勝間田

 赤木清さんについて

 故郷を離れている私には、故郷から送ってくる「ひだびと」は唯一の故郷からの頼りであった。このひだびとの中に考古学の分野があり、赤木清という人の論文がのっていた。今思い出しても、江名子のひじ山の土噐の研究は、飛騨の考古学を系統ずけた最も貴重なものであったと思っている。

 たまたま高山に帰ったとき「ひだびと」を経済的に援助しておられたスズメ食堂の主人、白川吉郎さんを尋ね、ひだびとの取り上げている考古学に話がはづみ、一度赤木清という人に会いたいというと、会わせませうか、ということになり、今から行きませうといわれる。驚ろきながらも連れていって頂だくことになり、西校の西の総和町を北に、総社の裏の北に西向の門を開けて入ると北向の入口の上には江馬修の表札がかかっていた。ここは江馬さんの家ですかというと、赤木清は江馬さんのことですといわれた。

 赤木清しとは江馬さんの考古学のペンネームであることを、江馬さんの家の戸口で知ったのである。この日が江馬さんに始めて会った日であり、この日数百点の土噐を見せて頂だいた。陶噐を作っている私には大変勉強になった。数時間、お邪魔をして帰った。この日以後、私は江馬さんにお会いする機会はなく、一度だけの巡りあいであった。戦争は深まり「ひだびと」は廃刊となった。從がって赤木清の名も消えた。あの貴重な多くの土噐や石噐はどうなったであらうか。いずれ江馬修作品集は刊行されるであらうが、赤木清研究集の発刊も、飛騨人にとって待たれる本である。

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  • 五月の頃

    日新聞

 今から三十年前、終戦の年の五月の頃、私は三浦半島の武山という海兵団にいた。船舶警戒兵としての訓練のためである。しかし当時警戒しなければならない船舶はなくなっていたのである。

 ある日疲れてやっと夕食をすますと集合がかかり、これから作業に出る、下着の着替の他は紙も書くものも持つなというのである。夜中になって出発、暗い山道を約三時間歩るいて夜が白みかけた頃、宿舎の荘厳寺という寺についた。

 私共の着くのをまって交代の兵が帰っていった。私共の仕事は曲射砲陣地の構築で、小山の麓から頂上に向ってトンネルを掘る作業であった。十五人の班員が七人づつ二組となり、一名は雑役となった。この雑役が群馬県の浅間山麓出身の髙橋という兵であった、彼れは食量不足のうえ重労働にあえぐ私達のために、山をかけ廻って食べものを集めてくれた。

 蝮はまづ目玉をくり抜いて自分が生でのみ、身を十四に切って焼いてくれた。始めのうちは喉を通らなかったが精力が付くからといって無理矢野喰べさせられた。青大将、蛙、蝸牛、飢えてくれば何んでも喰べれた。ある日、田の中に田螺がいるのを見つけて持って帰らうとすると、村の人が今の田螺わ「子持田螺」といって毒だといわれ、しぶしぶ田の中に捨てたこともあった。

 苦しい一週間がすぎ帰れると思ったら留守隊に日本脳炎が発生して、また一週間いることになった。

 五月の思出は、この苦しい思出しかない。晴れた日、家の下の土手を楽しそうに山菜をつむ人を見かける、この頃である、この人も喰べるに困って山菜をつむのではない。店先には豊富に喰物が竝らんでいる。

 虱に喰はれながら笹の実を焼いて一粒一粒皮をむいて喰べた三十年前とは何と替ったことか。この頃の人々は有難いとというここと勿体ないということを忘れてしまっているようである。こんなことを云うのも古くさい年寄の繰言でせうか。好きこのんでなんでも喰べれるこの頃、あの頃の苦しさが思い出される。

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  • 【この頃】季節の味 アブラエあえ

    朝日新聞朝刊 五月十八日

 岐阜県でも北の方、飛騨も中、北部になると美濃地方とは半月以上も季節が後れておとずれる。それでも五月もなかばとなると、むせるような若葉の香りに包まれる。傾斜地の水田の大きな畔は若緑に染まり、アズキ菜、ヨメ菜をはじめ山ウドなども芽をだして春の味を知らせてくれる。

 昨年まで、山菜取りの好きな妻は大きな風呂敷をもって、ワラビやゼンマイを取りに出かけたが、帰ってからゴミを取る作業が大騒動で、なまくらな私はこの仕事を手傳うのがきらいで、何とかして山菜取りに出かけないようにしむけたものである。

 ところが昨年暮に目の手術をしてから目が良く見えるようになり、昨日は荘川村の山の仲間で行ってきたが、篭から引っぱりだしたゼンマイはゴミが入っていなかった。目が見えるのでゼンマイだけを取ってきたと御自慢で、今度一雨降ればワラビ取りだと張りきっている。

 今日の食卓はフキのうま煮、ノビリの味噌合え、ヨメ菜とセリのアブラエ合えの三つの丼が竝らんでいる。飛騨地方でアブラエというのは荏胡麻のことで、他地方では人間が喰べることのない小鳥の餌である。しかしアブラエを炒って磨鉢で磨ると油がにじみ、皮は風味をだす。これに醤油、砂糖で味を付けて合えるのであるが、ことにジャガ芋をゆでて皮をむき合えたものはジャガイモの最髙の喰べかただと思う。このアブラエを他国の人に喰べさせると美味さに驚ろかれる。これがアブラエと聞いて二度ビックリする。

 老夫婦は山菜を竝らべてえつに入っているのであるが、中食だけを喰べにくる三男はこの丼に全然手を出さない。二十年の食生活は、野趣味の素朴な山菜の味は年よりの懐古趣味の味であらうか、油らっこいものの口直しのようなものになったのであらうか。


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